説明
シンガー・ソングライターの RIQUO (リコ)が
コントラバス奏者の河崎純を迎えて制作した10曲入りアルバム!
【作品について】
これは極々普遍的な私の日常の中で生まれた(脳内)ノンフィクション、極めて哀歌に近い暗闇の中のラヴソングです。笑)演奏していた当時何故日本語(母国語)でないの?という問いがよくあったのですが、答えはとてもシンプル。とてもとても恥ずかしかったからです。そして英語は私の頭には理解し難い言語であるから。着想から17年、録音から11年…。静止しているかのようなペースでここまで来てしまい、共演の河崎さん、関係者のみなさまにはもうお詫びをする勇気もなくなってしまったけれども、厚かましくもこの細やかな私の音の軌跡をアウトプットする事で、これからの新たな音世界が広がっていくことを密に念じている。小さな私の小さな世界。人間の持つ醜くも美しくも悲しくもあるミクロマクロな心の世界です。存在する、いえ、存在なき、わたくしではない、または私かもしれない誰か、自然、そして見えないものとの対話、想像し得る万物との心の対話です。そこに特別な事は何もないんだけれども。 最後に私のそばに居てくれた、居てくれる愛すべきみなさまへ。本当に感謝しています。そしてこれから出会えるかもしれないみなさまにも。
(RIQUO 2024年4月)
アーティストが、鏡に写すように、身に滲みた音の作法を識るのはいつだろうか。耳にする音楽が新鮮さを失い、その風景に苛立ちを覚えたときだろうか。好きだった音楽を、まるで影踏みのように追いかけて、いつの日か、雲ひとつない、影ひとつない風景の中に自分の影だけを認めたとき、だろうか。自らは決して踏むことが出来ない影、他人にしか踏むことが出来ない影に気がついたとき、だろうか。日々繰り返してしまう仕草、ついつい選んでしまう色。快音を求めて無意識に繰り返してしまう指の動き。アーティストの日常は、他人の影から自分の影を切り取るための行為の連続なのかもしれない。だが皮肉なことに分身である影は、他人の影を映す太陽の方向からではなく、
視線を太陽から真逆に逸らすことでしか、見ることも切り取ることも出来ない。しかしアーティストの眼差しがいつ反転するのか、もしくはそうすべきなのか、おそらく誰にもそんなことはわからない。ある音楽の形、それを簡単にケーデンスといってもいいかもしれない。例えば、チャーリー・パーカーの音楽は、ブルースと、ドイツの(リズムチェンジ)ケーデンスの二重性が産んだというように。それはユダヤとアフリカのディアスポラの重なりがビバップを産んだことを示す、音楽の形。
ここには一つの音楽があって、それはある一つの形を示していると、少なくとも私は感じる。しかしおそらくその形を、どうやら当事者である彼女は、あまりはっきりと認めたくないと無意識に感じているようだ。その形が裸のようにあまりにも剥き出しだと本人は感じるのかもしれない。しかし私はその正直な音楽の表情に、素直に心惹かれる。この音の形は、どうやって彼女の手に灯り、身体に宿ったのか。
しかしそんな想念を打ち砕くサウンドを彼女は躊躇いなく導入する。それは彼女の音楽の形とは、真逆のサウンド。夢ごこちに上昇する爽快な音を地上に引きずり下ろすそんなサウンドを彼女は導入する。混濁したサウンドの僅かな隙間から垣間見える彼女の音の形は、不条理の中で輝きを増すと、彼女は感じているのだろうか。ここには一つの意図があって、それは彼女の願いを明らかにしていると、おそらく誰もが感じる。歌となって現れるテキストとは無関係の願い。それが音楽的なものなのか、私は、私が感じる音楽の形に照らして、どうなのかがわからない。ただ、それは彼女のこの音楽にこめた願いであることに違いないし、私たちは彼女の音楽の形が、誰かのサウンドと重なって映し出すハレーションのような風景全体を、もう一つの音楽として耳にしている。
そういえば、一つ不安なことがある。私は彼女の影を踏み損ねているのではないだろうか。
(高見一樹 2021年3月)
■仕様:CD+冊子(148mm×148mm)
■演奏:RIQUO(Vo,P) 河崎純(CB)
■収録曲
The Dialogue of The Night ~夜の対話~
Ⅰ~Ⅸ(完結編) <2007-13>
1. Ⅰ章 prologue<2007>
2. Ⅱ章 <2007>
3. Ⅲ章<2013>
4. Ⅳ章<2008>
5. Ⅴ章<2009>
6. Ⅵ章<2013>
7. Ⅶ章-1<2010>
8. Ⅶ章-2<2010>
9. Ⅷ章<2011>
10. Ⅸ章<2013> epilogue